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ことばの近さや遠さについて

こちらはSPBS編集部員による雑文連載コーナーです

物体や景色は、主に言語を介して連想されることが多い。もちろん断片的にはなってしまうけれども、言語はそれらに宿っている感覚的な情報をできるだけ近しく写し取る方がいい。「いい」というか、ことばを解体した際には、子音や母音の特徴、動かす口の様子、発声や発音における傾向等にその近しさが反映される、みたいなことが『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(以下、『言語の本質』)に書かれていた。

たとえば、ある対象を写し取っていることばの「音」に注目してみると、音と意味の親和性を確認できることばは多い。音の清濁や子音の特徴について、同書では以下のような説明がある。

「コロコロ」よりも「ゴロゴロ」は大きくて重い物体が転がる様子を写す。「サラサラ」よりも「ザラザラ」は荒くて不快な手触りを表す。さらに「トントン」よりも「ドンドン」は強い打撃が出す大きな音を写す。gやzやdのような濁音の子音は程度が大きいことを表し、マイナスのニュアンスが伴いやすい。

今井むつみ・秋田喜美『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』p23

子音には大きく分けて「阻害音」と「共鳴音」の二種類がある。阻害音は角張っていて硬い響きの音、共鳴音は丸っこい柔らかい響きの音と考えるとよい。阻害音としてはp、t、k、s、b、d、g、zなど、共鳴音としてはm、n、y、r、wなどがある。(中略)たとえば、日本語の「かたい」という形容詞はいかにも硬く、「やわらかい」という形容詞はいかにも柔らかく感じられる。「かたい」はk、tという阻害音を、「やわらかい」はy、w、rという共鳴音を含んでいる。

同上 p28、30

阻害音と共鳴音には、発声時における呼気圧の要素も関係してくるらしいけれど、ここでは割愛。

それで、この本を読みながら、日常で出会ういろいろなことばの「名は体を表す」様子を観察することが最近は楽しい。

「マシュマロ」は清音のみ、mとrの共鳴音がある。特に語尾の「マロ」がふわふわでもちもち、小さなフォルムの視覚的な特徴と合っている。仮にマシュマロが「ギャバップ」や「ボゴタ」のような阻害音を主体とする呼称だとしたら、どこかしっくりこない。

「センベイ」は濁音が混ざり、sとbの阻害音がある。「セン」も「ベイ」も平べったくて硬そうな見た目や渋い色味とも合っている。センベイが「マニュール」や「ワマン」のような共鳴音を主体とする呼称だとしたら、やはりしっくりこない。

こうして、ことばの音と意味の整合性を観察していると、それらが全然合っていないことばもしばしばあり、その不思議さというか、「よくそれでここまで通用してきたなあ!」と驚いてしまう。

たとえば、英語で「chimney(チムニー)」は「煙突」の意味で、その中でも船舶に取り付けられた煙突は「funnel(ファンネル)」というらしい。どちらもしっくりこない。特に、m、n、yと共鳴音オンパレードのチムニーで、あの無骨で筒状のでかい構造物のフォルムを連想することは少々難しい。でも実際にはそのような名付けがされていて、とても興味深く感じられる。

だが、物体や景色なら感覚の中でも主に視覚のイメージとリンクさせることによって、それらとことばのあいだにある距離感を一般的に了解されるものとして確認できるけれど、感情という形のないものに対しては、果たしてどうなんだろう、とも思う。

一年ほど前に読んだ、小説家の滝口悠生さんと写真家の植本一子さんの『往復書簡 ひとりになること 花をおくるよ』(※)で、滝口さんから植本さんへ宛てられた文章に、以下のようなことが書かれていた。

呼び方の問題といえばそれまでだけれど、やっぱりさびしさとかなしみは違うと思う。さびしさにくらべて、かなしみはどこか過去形の、過ぎ去った経験という感じがします。「かなしい」は「かなしさ」にも「かなしみ」にもなるけれど、「さびしい」は「さびしさ」にしかならず「さびしみ」とは言わない。「み」がつくと自分の感情からより離れた、自分と一旦切り離された感情になるような気がします。この「み」によって生じる距離が僕にとって必要なのかもしれません。(中略)僕は「さびしい」には「み」をつけることができないから、「み」をつけられる「かなしみ」の方にその感情を送り込み、さびしさを自分から遠ざけつつ、その感情に脅かされないようにしているのかもしれません。

滝口悠生・植本一子『往復書簡 ひとりになること 花をおくるよ』p66、67

「『み』によって生じる距離」とあり、あまりピンとは来ず、当初は滝口さんが思っている固有の「感じ」をうまくイメージすることができなかったが、『言語の本質』を読んでいるときに、なぜかこの文章がふと思い出されて、もう一度考え直してみた。

『言語の本質』では、日本語の母音「あ」と「い」では、「あ」は大きいイメージ、「い」は小さいイメージと結びつきやすい傾向にある、と書かれている。たとえば、何かを弾く様子を示す音で、「ピンッ」よりも「パンッ」の方が弾く際の力強さは大きそうだし、水が飛び跳ねる様子を示す音で、「ピチャピチャ」よりも「パチャパチャ」の方が水分量や跳ねる具合が大きいことを連想させる。

『言語の本質』を読み進めながら、滝口さんが感じていた「み」の遠さについて考えてみると、言語学における「い」の小ささを参考に、遠近法的な視点で「小さいから遠く感じられる」とも思われ、滝口さんの「み」の感覚が少しだけ分かるような気がする。

編集部O

(※) 現在、単行本のオンライン販売分は完売、PDF版のみ販売されています。

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