庭のような場づくり
週に一度、SPBSのメディア事業部内のメンバーで30分ほど対話の時間を設けている。対話のテーマは当番制でその週の担当者が持ってくることになっていて、「推敲について」「推しについて」「架空の小説の一行目から風景描写を連想する」など、毎回のテーマに沿って自由に話し合う。
今週の対話のテーマは「商業施設について」だった。どれくらいの建物のスケールを商業施設と認識しているか、場所の居心地の良さや使いづらさは何によって決まるか、商業施設の中に設置してほしいものなど、いろいろな話題が出た。その中でも、場所の居心地の良さや使いづらさについて、対話の時間が終わった後も一人で考えていたので、雑感を書いてみる。
建築と庭における納品の違い
商業施設に限らず、建築と呼ばれるものは完成形が納品されることが多いので、場所の運用者はデベロッパーがあらかじめ想定していた完成形に沿って行動することが基本的には促されている。具体例として、そこにベンチがあるからそこに座る、そこに店があるからその店に入って買い物をする、そこが駐車場だからそこに車を停めるなどが挙げられる。
一方で、庭は完成形の手前の状態でその場所が納品される。庭師がある区画に庭を作った時、完成形としての庭は納品されず、その後に運用者が花を植えたり、レンガを置いたりしながら何年もかけて庭の完成形を目指していく。
場に順応する
庭のような場所は住宅の中でも特に公私の境界線が曖昧なので、運用者は気候や動物などの外部とコミュニケーションを取りながらその場所をつくる。外部の都合が入り込みやすい庭では、今年は暑い時期が多いから多肉植物を植えるのは避けよう、この木にはよく鳥が訪れるから試しに小さな鳥小屋を作ろうなど、運用者はその時々で訪れる環境へ順応(adapt / アダプト)しながら場づくりに励む。順応という過程は、納品された庭が未完成であることや、自分以外の外部の存在がそこにあることによって生まれている。
庭に訪れる野良猫
私の実家には庭があり、そこを野良猫がよく通るのだが、通行中によく用を足す。いつも同じスポットで用を足すことが多いので、おそらく野良猫は庭の特定のスペースをトイレと認識している。
本来であれば、その庭は野良猫のための通路やトイレとしては作られていない。この場合における順応の在り方は二つある。一つは、「本来であれば」を押し通して、野良猫が庭に入ってこないような工夫を施すこと。そしてもう一つは、野良猫が持っている「そこはトイレである」という認識を許容して、トイレのスペースには作為を加えず、他のスペースでガーデニングなどを楽しむこと。
先に「(庭は)公私の境界線が曖昧」と述べた通り、私は庭を自分が完全にコントロールすることができない場所だと思っている。それに、実家はわりと最近建てられたのだが、そもそも野良猫は実家が建てられる前からその場所を通路やトイレとして使っていた可能性だって十分にあり得る。このような背景を踏まえると、自分だけが庭を所有しているという感覚は限りなくゼロに近づいていくので、順応の在り方は後者を選びたい。
アダプティブ・ランドスケープ
建築と庭における納品の違いに話を戻すと、竣工として建物を納品する建築設計が「終わり」をデザインする場づくりと仮定した時、庭づくりは建築とは対極的な竣工、つまり「始まり」をデザインする場づくりになる。
ルールや制度が縦横無尽に張り巡らされた設計図や完成形の中で行動することが前提の場所では、利用者は決められたこと以外の行動を起こしづらい。開発者と運用者が区別されてしまうと、往々にして運用者側の都合が介入する余地が少なくなってしまう。
例えば、少しの時間だけ座るために作られたベンチは、仕切りのような手すりが等間隔で配置されたり、座面に座りづらい角度がつけられたりしていて、具合が悪くなった時などに寝転んで休むことはできない。にぎわうことを前提にしてつくられた空間では、悲しくてふと泣きたくなってしまった人は、素直にその感情に従って泣くことを躊躇ってしまう。場所の居心地の良しあしは、運用者が抱えている固有の都合を反映することの難しさと関係しているように思われる。
そこで、「終わり」ではなく「始まり」をデザインするような場づくりの可能性に注目する。手法の一つに、アダプティブ・ランドスケープと呼ばれるものがある。直訳すると「順応可能な風景(景観)」となる。
アメリカの大学のキャンパスでは、アダプティブ・ランドスケープを採用した場づくりがいくつか実践されているらしい。キャンパスの中庭にただの芝生を敷き、その時点では中庭における納品物は芝生だけ。そこから学生や教授などが数年かけて、芝生を勝手に運用していく。芝生の用途はさまざまで、歩いたり、座ったり、寝転んだり、軽い運動をしたりする。
時間の経過とともに人通りが多いエリアの芝生は剥げていき、剥げた芝生は獣道のようになり、その場所は自然と通路としての機能を獲得していく。一方で、あまり人が集まらない場所は芝生が成長していくので、そこは植栽するための場所などに生かされていく。芝生が敷かれた後に、運用者側によって場の用途やルールがつくり上げられていく。
アダプティブ・ランドスケープは運用者側の成り行きに場を委ねるような手法だ。大きな建物や設備を作る際の建築にも採用されたら良いと思うが、全ての成り行きを許容すると場の一貫性が崩れてしまう恐れもあるので、もちろんそんな一筋縄にはいかないだろうとも思う。商業施設のような場所で、小さな区画でもこの手法を試みているようなスペースを見つけていきたい。
庭のような場づくりを試みる
コロナ禍を経て「集まること」の定義が多様化した。オンラインミーティングは物理的な空間を共有する集合ではないが、そこで議論や対話が行われるためのある種の場所として認識されている。
また、SPBSで開催されているトークイベントなどは、ハード(建物や設備)の設計ではなく、その上に立ち上がる体験や経験を生み出す場づくりだと思う。場づくりは必ずしもハードの設計に限らない。これまで私もトークイベントや読書会の企画をいくつか担当してきた。イベントを企画して運営することが、参加者の体験や経験を生み出す場づくりである時、その設計に庭づくりの論理を生かすことはできるかというテーマに最近は興味がある。
その場のあらかじめの決まりごとはどれくらい準備するべきか、その場で受け取る体験や行動を起こす自由度はどれだけ参加者に委ねられているか、当日の進行が事前の想定から逸脱した時、どのように順応するべきかなど、気まぐれや成り行きに心を寄せる庭のような場づくりの可能性について、これからも考え続けてみたい。
編集部O