体系に回収されない言葉
編集の仕事をしていると、制作する誌面や記事において、文章の正確性や論理の整合性などをしっかりと確認しなければならない機会が多い。事実にそぐわない内容を盛り込んだ記事をつくったり、インタビューをした相手の本来の意図や心理とは異なる表現をしたりしてしまわないよう細心の注意をはらい、関係者とのできるだけ正確なコミュニケーションを心がけて意思疎通をはかる。
仕事でそのような正しい情報や論理の文章に触れていると、基本的に文章というものはそれしか許されないものなんじゃないかと思ってしまうけれど、もちろんそんなことはなくて、そこにはさまざまな形式や手法があり、体系的ではないものも多い。
これは、私が好きな作家・山口慎太朗さんの短歌だ。この短歌が収録されている連作『怒り、尊び、踊って笑え』は、第2回笹井宏之賞の最終選考に残った作品で、連作には五十首の短歌があり、その中の一首。
上の句では、葬式にロバを連れて行くことの許可について誰かに尋ねている。「連れて行ってもいいですか」ではなく「連れてったらダメですか」と聞いているので、なんとなく“ダメって言われると思うけど、それでも聞いてみよう”というダメ元な感じが伝わってくる。
続けて下の句では、iPhoneの色が白だと怒られるかどうかを尋ねている。おそらく、葬式にロバを連れて行くことの許可を取ろうとした相手と同様の人物に対して投げかけられた質問だと思う。葬式にロバを連れて行くことと、iPhoneが白だと怒られるかどうかを並列で尋ねているが、上の句と下の句の脈絡は個人的にはあまり感じられない。それでも、この一首に感動してしまう自分がいる。
この一首の中にある、尋ねる内容の並列関係や登場する動物の選択などは、山口さんにとっては切実で絶対的なものなんだと思う。葬式にロバを連れて行っていいかどうか尋ねたら、その後はiPhoneが白で怒られるかどうかを尋ねるしかなくて、葬式に連れて行きたい動物は、ロバ以外の亀や鸚鵡などの動物では許されず、ロバ一択。
その人しか持っていない世界観や、自由な思考、表現、文体などに出会うと感動する。他者へ言葉を差し出す際に訪れる「伝わるか」「伝わらないか」の反復横跳びを経て、このような短歌をつくる山口さんの姿勢が本当に好きだ。
社会的に正しいとされる情報や大多数に了解されやすい表現をそこに求めようとしてしまうと、全体の脈絡や整合性ばかりに気を取られてしまい、作家個人が持っている固有のコンテクストに心を寄せることは難しい。歌人・穂村弘さんは『はじめての短歌』で以下のように短歌を定義している。
社会と対比した時の個人のある種の小ささや弱さが、逆説的な強みとして表現に力を与えることはあると思うし、穂村さんがおっしゃっているように、短歌にはその要素が強くはたらく気がする。そして、その力のことをずっと信じている。
編集部O